当山は慶長年間、興山寺勢誉法印の開基にして初代紀州藩主 浅野幸長公の命により保田の庄梁瀬の里より現在の地にうつす。

高野山行人方と紀州藩との国交拠点になった寺院で、高野山輪番所として紀伊国名所図会に伝わる。

本尊の厄除弘法大師は大師42歳の御時に自ら彫った像とされる、不蒔菜(まかずな)の大師と呼ばれ、大変な飢饉の時に、この尊像に手をあわせると菜っ葉が生え大師尊像の霊験尊徳により、民衆が救われたという。

先の空襲の戦火にも難を逃れ、益々この大師の霊験を頼りに毎月21日には大勢の参拝者が訪れます。